寺ネット・サンガ 事務局


サンガの遠足 in 目黒

2019-09-07


目黒不動

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江戸時代、多くの参拝客を集めた目黒不動瀧泉寺。

現在はマンションが立ち並ぶ門前町ですが、かつては500メートル以上、左右に参拝客目当ての商店が軒を連ねたといわれています。



伝教大師最澄の弟子で、天台三代座主となった慈覚大師円仁が、比叡山に向かう途中この地で宿をとった際、不動明王の夢を見たので、その像を彫ったのが寺の始まりだといわれます。



江戸時代には、三代将軍家光公の鷹狩りが縁で、将軍家や大名家の加護を受け、江戸近郊の参詣行楽地として栄えるようになりました。



境内には、多くのお堂や仏像のほか、慈覚大師ゆかりの「独鈷の瀧」や、家光の鷹狩りゆかりの「鷹居の松」など、様々なご利益があるお参りどころが盛りだくさん。

さすが、江戸庶民に人気の参拝地でした。

五百羅漢寺・大圓寺

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五百羅漢寺の羅漢像は、元禄時代に松雲元慶禅師が十数年の歳月をかけて彫りあげたものです。

元禄8年(1695) 本所五ツ目(現在の江東区大島)に創建されましたが、明治41年、目黒のこの地に移ってきたそうです。

そのおかげで空襲による戦火に合うことなく、今に羅漢像が残っていることも教えていただきました。



五百羅漢寺の執事の無垢品さんに、羅漢堂と本堂にお祀りされている羅漢像のご案内をいただき、一同は松雲禅師のご苦労を偲び、語り掛けてくるようなお像の表情に感動していました。



江戸の人々にも親しまれ、心のよりどころとなっていたであろうことが伝わってきました。







その後、目黒雅叙園前の太鼓橋を渡り大圓寺へ。

大圓寺前の坂は「行人坂」といわれ、大圓寺を拠点とする修験道の行者がこの坂道を往来したことから名づけられたといわれています。

坂の下の目黒川は、ここで身を清めてから目黒不動に詣でたことにちなみ「垢離取川(こりとりがわ)」と言われていたそうです。



江戸の三大大火の一つ「明和の大火」は、大円寺が火元となり、白金・麻布から千寿・浅草まで、幅4キロ・長さ20キロを延焼し、焼死者15000人を数えた地うことです。

境内には、その供養にと五百羅漢の石仏群がまつられています。



五百羅漢寺とは違う由縁の羅漢像に、心を込めて手を合わせました。



覚林寺・正山寺・泉岳寺

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今にも雨が降りそうな雲行きに、目黒駅から2駅ほど地下鉄に乗り白金高輪駅へ。



まずは、加藤清正公ゆかりの覚林寺を参拝。

清正公が朝鮮から連れて来た王族の子が出家し、のちに誕生寺18世となった日延上人の隠居寺として、熊本藩主細川家の中屋敷であった場所に建立されたお寺です。

白金の「清正公さま」と呼ばれ、勝負祈願の寺として信仰を集めています。





その後、路地の坂道を上り、都営住宅の一角にひっそりとたたずむ「大石良雄外十六人忠烈の跡」へ。

赤穂浪士四十六士のうち大石内蔵助良雄ら十七人が熊本藩細川家下屋敷に御預けとなり、当地で切腹した場所です。

往時をしのび手を合わせました。





寺ネット・サンガの会員もある、前田宥全さんが住職を務める曹洞宗正山寺に到着したのは4時過ぎ。

禅宗らしい落ち着いたたたずまいのお寺で、しばしお茶とお菓子をいただきました。





疲れが取れたところでもうひと頑張り。

路地の坂道を下り、泉岳寺へ。

赤穂浪士の墓所の発掘整備にも関わっている松原典明氏から、浅野家と赤穂浪士のことや墓所の歴史について説明を受けました。





午後5時、雨にも降られず無事解散。

盛りだくさんの寺めぐりでした。






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