輪の法話
法話集
寺ネット・サンガのお坊さんによる法話です。
読むだけでなく、お説教を聞いてみたいという方は、坊コンや仏教ひとまわりツアーに足を運んでみてください。お待ちしています。
輪の法話一覧
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日々是好日
輪の法話会
2017-01-10
みなさんは、5年前、10年前の自分を思い出せますか。 外見や考え方はもちろんですが、仕事やご家族の状況、友達の顔ぶれなども変わっていることでしょう。 振り返ってみると、自分の思い通りにならなかったこともたくさんあったのではないでしょうか。 では、今から5年後、10年後の未来、自分や周りは一体どうなっているでしょう。 世の中には一瞬にしてすべてが変わってしまうようなできごとがあります。 過ぎたことはもう変えられません。 将来、何が起こるかもわかりません。 『諸行無常』、万物は流転し、すべては常に変化してゆくのがこの世の理です。 あなたが今したいこと、伝えたいこと、本当になすべきことは何でしょう。 それは、今あなたにしかできないことです。 「いつかしよう」ではかないません。 今この瞬間に集中し、「ああ、今日は良い1日だった」「今週もがんばったな」と言える日々を過ごすこと、これを『日々是好日(にちにちこれこうじつ)』といい、悔いのない人生を過ごす秘訣です。 今日も1日、目の前をしっかり見つめてまいりましょう。
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誓願~仏さまの祈り
輪の法話会
2017-01-10
お経には、仏さまの言葉としてこんなことが説かれています。 「私は、いつでもお前たちを見守っている。しかし、いつでも私に助けてもらえると思って、お前たちは、おごり高ぶり、身勝手にふるまい、だらしなく、欲望に駆られて貪り、他を思いやる心に欠けた生き方をしている。それでも、私は、お前たちの親として、子供であるお前たちの面倒を見て、苦しみや悲しみを取り除こうと、常に心を砕き、思いを寄せているのだ」と。 この仏さまの思いは、仏さまから私たちに向けられた祈りと言ってもよいのではないでしょうか。 どんな生き方をして、どんなふうに過ごそうとも、私たちは仏さまから祈られている存在なのだと考えると、生きる上で大きな力になるはずです。 私たちは仏さまから大きな力をいただいているのです。 もともと身勝手でだらしない、欲望のかたまりの我々人間を、仏さまは見捨てずに見守ってくださっている。 何とありがたいことでしょう。 仏さまに祈られていると感じながら、仏さまの親心に応えられるように励み、生きとし生けるものすべてが、幸せになれるように努めること。 これこそが、私たち子供としての願いであり、私たちの真の祈りではないでしょうか。
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「私はよく”バカ坊主”と呼ばれます」 名取芳彦
輪の法話会
2015-01-05
お通夜や法事の後に供される食事をお斎と言います。この場でお酒が出ます。お酒が嫌いでない私は「人酒飲み、酒酒を飲み、酒人を飲む」の言葉の通りの”バカ坊主”になることもしばしばです。そのぶん参列者との会話はザックバランで、腹を割ったものになります。 ある時、飲んだ勢いで私がつつみ隠さず日常のだらしない体たらくを吐露すると、これまたかなり酩酊の隣のおやじさんが「まったく、住職はクソ坊主だな」とおっしゃいます。 周囲の素面(しらふ)の人たちは目を丸くしました。住職に向かってクソ坊主とは失礼千万だと思ったのです。私はそのおやじさんに言いました。 「お褒めいただいてありがとうございます」「住職、何言ってんだ。褒めてねぇよ」「いや、私はまったくのクソ坊主」「そうだよ」「でもこのクソ坊主のクソは、ナニクソのクソ。へこたれないぞと頑張る坊主」「ははあ、なるほどね。そりゃクソ坊主だ」で、二人だけでなく周囲も巻き込んで「わはははは」と大笑いしたという顛末。 クソ坊主だけでなく、私はよくお坊さん仲間に”バカ坊主”とも呼ばれます。自分の時間がほとんどないほど色々なことに手を出しているからです。 見方によればバカですが、私にとっては褒め言葉。「へへへ。どうも、バカですみません」と喜びます。関西ではアホになるのでしょうか。 こうした開き直りは皆さんにも必要でしょう。バカでなければできないようなことはたくさんあるのです。 「バカでよかったよ。バカじゃなければできないものね」とニッコリ笑えばいいのです。普通ではできないことをしているのだという自覚を持てばいいのです。 私が気になるのは、何かを失敗して自分のことを「バカみたい」と照れ笑いする人の方です。 ”みたい”は、心の底では自分はバカではない、失敗などしないと思っているのです。 しかし、失敗したのですから、堂々と自分のバカを認めればいいと思います。その点で失敗をして「わっ、やってしまった。私ってバカだなあ」とおっしゃる人に清々しさを感じるのです。 だれかに「あなた、バカじゃないの」と言われて気になるようなら、次はこう言ってはどうでしょう。「”あなた”の後に ”も” を入れなさい」 (名取芳彦著『気にしない練習』より)
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「自分の物差しを確認する」 増田俊康
輪の法話会
2014-10-02
ちょっと想像してみてください。 皆さんが海でボートを漕いでいると、突然大きな客船が目の前で沈没し、大勢の人々が海に投げ出されました。 老若男女、様々な人が溺れています。 ですが、あなたの乗っているボートはその方たちをいっぺんには助けられそうにありません。 さあ、あなたなら一体どなたから助け上げますか? 「子どもはまだ人生が長いのだから子どもからだ」 「いやいや老人こそが国の宝だ」 「何を言う、女性こそ先に助けられるべきだ」 様々なご意見があろうかと思います。 では、そういう状況で、もし仏さまなら誰から助けるでしょうか。 これは実は順番が決まっています。その順番とは……。 仏さまは近くにいる方から助けるそうです。 よこしまな心がなく、迷いがないからでしょう。 私たちはついつい自分の物差しで他の人を判断してしまいます。 「あの人は助けるとあとで御礼が貰えそうだ」「この人は前から好きじゃなかったから後回しだ」……。 今日一日、自分の物差しが果たして本当にあっているのか、確認してみませんか。
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「人それぞれの生き方、考え方でよい」 前田宥全
輪の法話会
2014-10-01
あなたは、自分と他人とを比べて、不安になることはありませんか。 あるいは、自分自身を評価出来ずに苦しんでいませんか。 学校でも会社でも、もしかすると家庭でも、人と自分とを比べて不安になり、自分自身を評価することが出来ずに苦しんでいませんか。 しかし、その評価の基準になる自分自身は、実はとても曖昧なものです。 同じように、他人の評価もみな“自分独自の経験から得た知識による理解”でしかなく、気にするものではないのです。 そんなことよりも「私はこれでいい」「私はこうなのだ」と胸を張ってみてはいかがでしょうか。 『鶏寒くして樹に登り、鴨寒くして水にくだる』といいます。 鶏は寒いと樹に登り、鴨は寒いと水に入るのです。同じ鳥でも、寒いときにとる行動が違うことを詠んだものです。 同じように、人間も、ひとそれぞれの生き方、考え方があって良いのです。 いろいろと困難が立ちはだかる人生。つらく、苦しいときもあると思いますが、その一つ一つの困難を丁寧に生き抜いていくことによって、あなただけの生き方が見つかるはずです。 そうすれば、今は苦しい辛いことがあっても、きっと、人生は、生きやすく、過ごしやすくなっていくことでしょう。 まずは、今日一日を自分のために生きてみませんか。
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「間が違うと、間違う」松本智量
松本智量
2014-05-06
やさしい算数の問題におつきあいください。 簡単ですので、暗算でお願いします。 ひと桁の数5つを足し算し引き算します。 いきますよ。 1たす 2たす 3ひく 4たす 5 以上です。いかがですか。 頭の中の数字が9になった方はいらっしゃいませんか。 答えは9ではありませんよ。 もう一回、今とまったく同じ式を、ちょっと読み方を変えてお出しします。 もう一度やってみてください。 1たす2たす3ひく4たす5 いかがでしょう。 今度はみなさん、答えが7になったはずです。 一回目と二回目、式はまったく一緒です。 でも、一回目の方は、式の中に変な間を入れてしまったんですね。 変なところに間が入ると、簡単な式でも間違ってしまうことがあるんです。 私は、これは人と人との間でも同じだと思います。 私は、どうも苦手だな、と思っていた人がいました。 でもその人との間をつめて近づいてみたら、とても気安く話ができたことがあります。 間が違うことを ”間違い” と言います。 あなたも、人との間が違っていませんか。 ちょっと振り返ってみましょう。
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「天国と地獄」 藤尾聡允
輪の法話会
2014-05-03
私たちのいのちは授かりものです いつか必ずお返しする日を迎えます。 人間だけでなく動物も虫も魚も鳥も、 そして道端の草花や森の木々など自然の生命も、 この世の生きとし生けるもの全てひとしく…。 仏教は区別をしても差別はしない宗教、 「みんな違ってみんないい」というのが本質です。 旅立ち方は様々です。 天寿を全うする人もいれば、 病気、事故、事件、自死で旅立つ人もいるでしょう。 どんな旅立ち方をしても、お釈迦様はあの世でみんなを平等にお迎えして下さいます。 「ようこそ、よく来たね」 「よく頑張って来たね」などと。 死に方の如何を問いません。 なぜなら、お釈迦様はこの世に生を受け、 生きていく事はとても辛く苦しい荊の道だと説いた方だからです。 そんな苦しみの人生を紆余曲折・七転八倒しながら生きて来た人は、 誰でも分け隔て無くみな平等に迎えて下さる、 それが仏教(ブッダの教え)です。 やがて四十九日の旅路の終わりが近づくころ、彼岸では、 おじいちゃん、おばあちゃん、そしてもっと遠い昔のご先祖様たちも一緒に 「まだかまだか」 「そろそろじゃないかな」 とソワソワし、ワクワクながらあなたを待っていてくれるでしょう。 そしてようやく辿り着いた時には、 「ありゃ、お前さんがわしのひ孫かや」 「じいさんによう似とるわい」 「よう来はったな」 「ばあちゃんが、天国を案内しちゃる」などと。 大歓声の中、パチパチと拍手をもって迎えてくれるでしょう。 さて、それでは、一体誰が地獄に行くのでしょう。 それは、私たち僧侶です。 私たちは率先して地獄に向います。 なぜなら、この世の中には方向音痴の人がいっぱいいるからです。 そんな人たちは、四十九日の旅路の途中で道を間違え、地獄に向かってしまうこともありえます。 もしそういう人達が地獄の門までやって来たら、 「おい、こっちは違うよ」 「大丈夫、わしが天国まで連れて行くから心配しなさんな」 と道に迷った不安な人達を安心させ、 無事に天国に送り届けるのが僧侶の役目だからです。 僧侶の仕事、それはこの世でもあの世でも変わりありませんね。
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「ジイジは今…」 吉田健一
吉田健一
2014-04-14
ある葬儀社さんから聴いた話です。 「魂なんぞあるわけない、骨なんてただのゴミだ。捨ててくれ」 故人が言い遺した通り、お葬式は行われませんでした。 「それではお別れです」、職員の号令と共に棺が炉に入るその時でした。 「ジイジは何処に行くの?」故人のお孫さんが呟いたのです。 「お別れ」なのですから、何処かに行くと思うのは素直な子どもの気持ちでしょう。 しかし、両親は口篭り祖父の遺志をこの子に伝えることなど出来ませんでした。 「私」が死ねば肉体はただのモノであり、自然に還りただの無に帰す。そのような死生観も当然認められるべきです。 しかし、あなたがゴミとしか思えない骨が眠るお墓を拝み、ただの板切れとしか思えない位牌に向け、あなたがあるはずもないと信じる魂と、あなたの死後も繋がりを求め会話をする人がいます。 もしも、この故人がお孫さんに先立たれていたのなら、「この子の魂なんてあるわけない。骨などただのゴミ。捨てるべきだ」、そう言えるでしょうか。 自身の死生観により死の覚悟が出来ていることと、残される人が死を受け入れることは別の次元のことなのです。 たとえ、死は自分にとってはすべてが無に帰するとしても、家族にとっては大切な人の喪失を抱える体験です。 「私」の存在は消えても、遺族の心に残る大きなあなたの穴も「私」のもう一つの姿かもしれません。 そして、「私」との生前の関係性を喪失した遺族が、その穴とどのようにして向き合って行くのかは残された人の主体的な心の作業であり、残された人が主体的に選択する生き方です。 故人の遺す言葉や思いが、時にはご遺族の支えとなり、希望となることもあれば、逆に喪の作業の足かせになることもあるのです。旅立つ者はそのことも見据えておく必要があるのではないでしょうか。 口篭る親に見かねた故人の弟が口を開きました。「きれいな世界に行って、向こうからいつもお前を見守っていてくれるんだよ」。 皆が頷き、笑みがこぼれました。 彷徨っていた親族の心がこの一言でひとつ処に向けられたのです。 「ジイジは何処にも行かないって言ってたのになぁ…」 光り輝く浄土より、苦笑いを浮かべながら照れくさそうにそう呟く頑固な故人の姿が、皆の心には映っていたのかもしれません。 葬儀とは、たとえ故人にとって最期(エンディング)の儀式であっても、残された者にとっては喪った存在と新たに関係性を結ぶ、スタートの儀式でもあるのです。 (このお話しは、事実にもとづいて脚色したフィクションです)