「ジイジは今…」  吉田健一あなたのエンディングは、遺される人には悲しみのスタートです。

あなたのエンディングは、遺される人には悲しみのスタートです。

ある葬儀社さんから聴いた話です。
 
「魂なんぞあるわけない、骨なんてただのゴミだ。捨ててくれ」
故人が言い遺した通り、お葬式は行われませんでした。

「それではお別れです」、職員の号令と共に棺が炉に入るその時でした。
「ジイジは何処に行くの?」故人のお孫さんが呟いたのです。
「お別れ」なのですから、何処かに行くと思うのは素直な子どもの気持ちでしょう。
しかし、両親は口篭り祖父の遺志をこの子に伝えることなど出来ませんでした。

「私」が死ねば肉体はただのモノであり、自然に還りただの無に帰す。そのような死生観も当然認められるべきです。
しかし、あなたがゴミとしか思えない骨が眠るお墓を拝み、ただの板切れとしか思えない位牌に向け、あなたがあるはずもないと信じる魂と、あなたの死後も繋がりを求め会話をする人がいます。

もしも、この故人がお孫さんに先立たれていたのなら、「この子の魂なんてあるわけない。骨などただのゴミ。捨てるべきだ」、そう言えるでしょうか。
自身の死生観により死の覚悟が出来ていることと、残される人が死を受け入れることは別の次元のことなのです。

たとえ、死は自分にとってはすべてが無に帰するとしても、家族にとっては大切な人の喪失を抱える体験です。
 
「私」の存在は消えても、遺族の心に残る大きなあなたの穴も「私」のもう一つの姿かもしれません。
そして、「私」との生前の関係性を喪失した遺族が、その穴とどのようにして向き合って行くのかは残された人の主体的な心の作業であり、残された人が主体的に選択する生き方です。

故人の遺す言葉や思いが、時にはご遺族の支えとなり、希望となることもあれば、逆に喪の作業の足かせになることもあるのです。旅立つ者はそのことも見据えておく必要があるのではないでしょうか。


口篭る親に見かねた故人の弟が口を開きました。「きれいな世界に行って、向こうからいつもお前を見守っていてくれるんだよ」。
皆が頷き、笑みがこぼれました。
彷徨っていた親族の心がこの一言でひとつ処に向けられたのです。

「ジイジは何処にも行かないって言ってたのになぁ…」
光り輝く浄土より、苦笑いを浮かべながら照れくさそうにそう呟く頑固な故人の姿が、皆の心には映っていたのかもしれません。
 
葬儀とは、たとえ故人にとって最期(エンディング)の儀式であっても、残された者にとっては喪った存在と新たに関係性を結ぶ、スタートの儀式でもあるのです。


(このお話しは、事実にもとづいて脚色したフィクションです)

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