親鸞という人がいた~寺ネットサンガ「坊コン」親鸞という人がいた

親鸞という人がいた

令和元年となった5月8日(水)、寺ネットサンガ「坊コン」が日本橋のルノワール貸会議室で行われました。
今回は「親鸞という人がいた」をテーマに浄土真宗本願寺派の松本智量さんがお話しくださいます。
松本さんのプロフィールはこちら
http://teranetsamgha.com/Members/view/matumoto_tiryou


親鸞とは
平安時代末期である1173年に下級貴族の子として生まれた。
9歳で出家し、比叡山にて20年修行して後、法然の弟子となる。
1207年、法然が流罪された際、自身も越後へ流罪となる。この頃、恵信尼(えしんに)を妻とし6人の子をもうけた。42歳の時に関東常陸(今の茨城県)へと移り人々へ本願念仏を伝える。
晩年は京都へ。長男を義絶。1263年に90歳で往生となる。
浄土真宗の宗祖

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「私達、浄土真宗では親鸞のことを開祖とは言いません。なぜなら親鸞は浄土真宗を開いていないからです」と、いきなり衝撃的な導入で私たちを、?の世界に引き込んでいく松本さん。

「宗派としては親鸞を浄土真宗・宗祖として捉えていますが、開祖とは言わないのです。実は、浄土真宗を開いたのは親鸞の孫である覚如という人です。親鸞の亡くなったずっと後にできた浄土真宗のことを親鸞は知りません。親鸞は法然の弟子ですので浄土宗のことしか知り得ないのです。
ですから親鸞が伝えていることには、実は親鸞のオリジナルはほとんどありません。法然の教えを伝えている、更にはお釈迦様の教えを伝えているだけなのです。それをしていたら、それが親鸞のオリジナルとされてしまったという不思議な構造なのです」

松本さんの話される親鸞は、私達の知る親鸞像とはかなりギャップがあるようでした。


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親鸞という人がいた』 松本智量より

称名(しょうみょう)
南無阿弥陀仏というのは”呼び声”です。
南無阿弥陀仏を称えることは修行だ、あるいは仏様に向けて行っていると思われている人がいると思いますが違います。
浄土真宗ではお念仏のことを“称名(しょうみょう)”と言います。
南無阿弥陀仏と称えているのです。それと同時に、自分が称えているのを自分で聞いているのです。仏様の働きがここに届いていることを知らせているのがお念仏なのです。
実は、南無阿弥陀仏というのは称えること以上に、聞くことのほうが大事なのです。称名(しょうみょう)は聞名(もんみょう)ともいい、聞くことが大切だとの意味があるのです。

浄土宗では聞名とはあまり言いません。また、浄土真宗ではお念仏を称える回数は一切問いません。そこが浄土真宗と浄土宗の大きな違いです。自分の称える行為というのは問題ではないということなのです。

法然は「お念仏は何回称えたらいいのですか」との問いに、「称えられるだけ称えなさい」と答えました。
弟子たちはそれを聞いて「いっぱい称えたほうがいいんだ」と捉えました。でも親鸞は、法然のその言葉を「そういうことなら回数は関係ないのだな」と解釈したのです。なぜなら自分の行為は問題ではないから。評価がひっくり返されるのが仏教の世界なのだと考えたわけです。

親鸞という人がいた~寺ネットサンガ「坊コン」親鸞はどういう人だったのか

親鸞はどういう人だったのか

親鸞は20年間の比叡山での修行を経ても尚、悟れないことに日々打ちのめされていました。その頃「南無阿弥陀仏」というお念仏を唱えるだけでいいという法然のうわさを聞き、親鸞はさっそく彼の草庵を訪ねます。
法然らの教えは、修行はいらない、念仏さえ唱えていれば悟りの世界へ導いてくださるというものでした。
それまでの仏教は高貴で高学な人のものであり、庶民には手の届かないものでしたが、法然の本願念仏の教えは庶民にわかりやすく大変歓迎され人気となっていきます。

その頃は仏教というものは大変な修行をしてたくさんの本を読んでさえもなかなか悟りには到達できるものではないという主流派の考え方がありましたから、念仏を唱えるだけで悟りを得られるという法然らの考えは異端とされ、宗教界から弾圧されてしまいます。
また、人間の平等思想を説いたことで、当時のヒエラルキーが崩れることを恐れた政治界からも危険思想であると弾圧を受けていきました。そして念仏を停止(ちょうじ)され、法然は土佐(讃岐とも)へと流罪になり、親鸞も越後へ流罪になりました。
高貴な出である親鸞は、おそらく世間知らずなところもあったでしょう。越後の地で町場の人々や農民と共に暮らす中で鍛えられていきます。親鸞はそんな現状を前向きに捉え、越後の民衆に念仏を広めていきました。北陸で浄土真宗や真宗が多いのは親鸞がその礎になっているからこそでしょう。流罪が解けても京都に帰らず、越後からこんどは常陸(茨城)へと向かいました。京都にもどるのは晩年になってからです。

公然妻帯
親鸞といえば、日本の仏教史上初の妻帯をしたお坊さんとして知られています。当時はお坊さんの妻帯はタブーでした。当時は「隠すは聖人、せぬは仏」と言われ、隠れて妻帯をしていた人はいたようですが、親鸞は公然と妻帯をよしとしました。そこが親鸞の人間性が現れたところだとされているわけです。小説などで書かれる親鸞は、性欲ときっちり向き合った人だった、といったテーマでフィクションで書かれることが多くあります。
一般には性欲に負けたなどとも解釈されることもあります。それらは必ずしも間違いではないとは思いますが、私たちの見方は違います。妻帯を“束縛からの解放“とみるのが我々の見方です。妻帯したのは法然の教えに忠実に従ったからとも言えるし、もしかしたら法然が勧めたから親鸞は妻帯したのではないかとさえ私自身は思っています。
法然は生涯独身でしたが、それを弟子たちに決して勧めなかったと言われています。
「肉を食べた方がいいですか?」という質問に対し、法然は「どっちだっていい。念仏を唱えやすい方を選びなさい」といったといいます。結婚に対しても同じだったのではと思われます。法然は、念仏し易い環境であるならばどちらでもいい、という教えをした人だったのです。

長男との義絶
親鸞が晩年京都へと戻った後、親鸞のいない教団を率いたのが長男でしたが、“教えの独占“をしたとして親鸞の怒りを買います。教えに反したことで長男を義絶したのですが、その後和解したかはわかっていません。京都では90歳で亡くなるまで『教行信証』を毎年のように添削されたと言われています。

親鸞という人がいた~寺ネットサンガ「坊コン」親鸞は何を説いたのか

親鸞は何を説いたのか

《束縛からの解放》
【れふし(猟師)、あき人(商人)さまざまなものは、みな、いし、かはら、つぶてのごとくなるわれらなり】
猟師や商人など当時は最下層の人々と思われていました。石、瓦、礫のように軽んじられていたのが当時の世間の評価でした。でもその人たちを見て「みな、われらなり」と言った親鸞。そして、石・瓦・礫を黄金のごとく変えてくれるのは、南無阿弥陀仏の光なのだと教えました。

私達は世間の評価に縛られ、また自分の価値をも自分で評価してしまいがちです。そして時に自己嫌悪に陥ってしまったりします。でも、それらは単なる一面でしかないのだから、自分の眼や世間の価値というものに捕らわれる必要はない。そういうものから自由になれるのが仏教であり、仏教の教えには全く価値観を変える働きがあるのだと親鸞は説いています。

【善人尚持って往生をとぐ。いわんや悪人をや】
世間の善悪からの解放。
善悪ということにこだわり、善悪を過剰に考えるということ自体が非常に不遜なことです。
例えば殺人。たまたまそういう環境になかったから私達は人を殺していないのかもしれない。環境によっては簡単に殺しているかもしれない。それは戦争という状況などを考えれば想像するに簡単なことです。
善人でさえ悟れるのだから悪人も悟れないわけがない・・・これは親鸞の独自性と言われていましたが、今ではこの言葉は法然が言ったとわかっています。

【父母の考養のためとて、一返にても念仏申したること、いまだ候らわず】
先祖供養の為に念仏することは一回もない。念仏は手段ではない。自分が何かの成果を出したいために使うのが仏教ではない。仏教を道具化しない矮小化しない。先祖供養の為に念仏するのではなく、むしろ、多くの先祖のお陰で今の自分が生きていることを気づかせてくださる呼び声が南無阿弥陀仏であるとすれば、その念仏というのは道具であり得るわけなのです。

【臨終の善悪を問わず】
死に方は往生の妨げにはならない。亡くなった方の顔を見て安らかだから往生間違いなし、などということは今でも言われることですが、そうではない。臨終の姿や様子で往生が評価されるわけがないと親鸞は言っています。


親鸞が何度も繰り返すのが、“様々な束縛から解放してくれるのが仏教である“ということです。
そしてそれは仏教自体の本来化ということでもあります。

《仏教の本来化 ※非神話化》
【「極楽無為涅槃界」といふは、「極楽」と申すはかの安楽浄土なり、かのくにをば安養といへり。「涅槃」をば滅度といふ、無為といふ、安楽といふ、常楽といふ、実相といふ、法身といふ、法性といふ、真如といふ、一如といふ、仏性といふ。仏性すなわち如来なり。法性すなわち法身なり。法身はいろもなし、かたちもましまさず。しかれば、こころもおよばれず、ことばもたえたり。阿弥陀仏は光明なり、光明は智慧のかたちなり】

私たちは浄土へ行くことを目的としていますが、では浄土とはどこでしょうか?
親鸞は浄土は極楽であるとは言ってはいません。安養であり涅槃であり、煩悩がない状態です。浄土とは悟りの世界の場所的表現なのです。物事をありのままに見つめることができる・・・そういう呼び声「南無阿弥陀仏」が智慧にほかならないのです。

足早に話しましたが親鸞の言っていたことをなんとなくイメージしていただけるとうれしいです。

                    
〇質問コーナー
後半は参加者からの質問コーナーです。質問者からの回答をサンガのお坊さんである松本さんや吉田さんから頂きました。親鸞について、また唯識についてなどの質問もあり、回答についつい熱が入ってしまい時間切れに。

「法然や親鸞、日蓮、道元など各宗祖は天台宗から出ているが、天台宗では各宗派のことをどのように解釈されているのでしょう?」という質問も飛び出し、今回初参加の天台宗のお坊さんである中曽根さんが答えてくださいました。

中曽根さんは「各宗派の宗祖なり開祖の方達が比叡山から出られたというのは、宗としては非常に誇らしいことだととらえています。日本仏教の母山(ぼざん)と称してもらえているのは、法然さん、親鸞さん、日蓮さんや道元さんなどの方々が天台宗という名を広めてくれているから、という考えが強いですので否定的なわけもなく、日本の大乗仏教が広まったのはそういった方々のお陰であると思っています」とお話しくださいました。


色々な宗派の学びが出来るのが寺ネットサンガの「坊コン」です。
親鸞に続いて、次回は吉田さんによる「日蓮という人がいた」です。
歴史的な背景や当時の仏教と政治のかかわりなどがわかる貴重なお話となりそうです。

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