サンガの遠足~多摩川台古墳群と等々力渓谷お坊さんと楽しく古墳巡り

お坊さんと楽しく古墳巡り

大好評の「サンガの遠足」が2018年9月28日(金)に行われました。今回は多摩川駅から等々力渓谷辺りを5キロほど歩いていきます。

実は、田園調布から等々力にかけてのこの辺りは、東京有数の古墳群のある場所。なんと50基もの古墳が発見されています。この多摩川を見下ろす台地は、さながらエジプトの王家の谷の様。田園調布古墳群と野毛古墳群という二つの古墳群を総称して、荏原台古墳群とよばれるこの辺りを散策していきます。

今回のサンガの遠足では、石造文化財調査研究所代表である考古学者の松原典明さんに同行をお願いすることに。松原先生は寺ネットサンガの吉田代表のご自坊である永寿院敷地内にある古墳の発掘や、万両塚の調査を担当された考古学者です。専門家のイヤホンガイドで解説付きという贅沢な遠足が実現しました。
   


〇多摩川駅~浅間神社古墳
連日の雨や台風でお天気が心配されましたが、当日は何日かぶりの晴天に。汗ばむ陽気の中、午後一時に駅を出発しました。目指すはすぐ近くの浅間神社古墳。約6世紀頃の築造とされる田園調布古墳群では一番南東端にあたる前方後円墳です。

高台の浅間神社から多摩川を眺めると、グリーンの丸子橋と東横線の線路が対岸の武蔵小杉のビル群へと続いているのが見えます。古墳時代の多摩川は、現在とは違ってくねくねと蛇行していたそう。古代の多摩川はどんな様相だったのでしょう。吉田さんがそんな多摩川の河川敷を眺めながら「ここはシンゴジラという映画のロケ地となった辺りです。ここが自衛隊の指揮所になったところですよ」と面白情報を教えてくださいました。

実は、浅間神社の下が前方後円墳の後円部分にあたるのだそう。
皆で小高く盛り上がった浅間神社のお社に参拝してから、神社の裏手に回ってみました。そこには金網越しに東横線の線路が。ちょうど古墳の前方部分は線路の下になるのだそう。
金網越しに眺めましたが、古墳の名残りも見当たらず残念。




サンガの遠足~多摩川台古墳群と等々力渓谷〇多摩川台公園 (亀甲山古墳~古墳展示室)

〇多摩川台公園 (亀甲山古墳~古墳展示室)

多摩川駅から田園調布の閑静な住宅街を歩いていくと多摩川台公園があります。
この公園内には都内最大と言われる前方後円墳の亀甲山古墳の他、少し小さめの1号~8号の古墳が蓬莱山古墳へと続いて点在しています。これらの古墳は4世紀から7世紀にかけて作られました。公園内は古墳の表示看板がある程度なので、何も知らずに来た人は気が付かないかもしれません。

日差しが強くなってきたので、休憩を兼ねて「古墳展示室」にて暫し自由見学タイム。こちらは無料施設となっています。実物大の円墳を模った横穴式墓をくぐると、中には埴輪などの出土物が展示されていて、埋葬されていた首長らしき人物の埋葬状態の模型も作られていました。
埋葬場所から発掘されたきれいな勾玉や金環などもあって、知識がなくともわかりやすいように古墳の場所が点灯するジオラマや、古代の人々の服装をした人形などが展示されていました。

展示室を出て蓬莱山古墳を横目に住宅街を歩いていきます。
田園調布から等々力へと左に多摩川を眺めながら歩くのですが、さすがに丘陵地帯なのか坂道が多いことに改めて気が付きました。多摩川へと下る道は急斜面になっていて転がり落ちそうなほど。
この辺り一帯には古墳時代末に出来たという小形円墳(西岡古墳群)が沢山集まっているのだそう。でも残念なことに、現在は宅地造成された住宅地の中に埋没してしまっています。


田園調布の高級住宅街を抜け、八幡塚古墳を横目に丸子川(旧六郷用水)の脇を歩きながら御岳山古墳を目指します。
六郷用水は江戸幕府開府の6年前、1597年に測量開始、その後14年かかって作られた灌漑用水です。多摩川の狛江市泉付近から取水し、800分の1という緩い勾配で南下し六郷領に至ります。下流域では高低差があるために当時の技術では水をくみ上げられません。用水の完成によって米の収穫量は確実に増大しました。しかし、大正に入って田園調布の住宅開発が進んだころから都市化が進み、昭和30~40年代に用水路は暗渠となっていきました。現在の六郷用水は、この日歩いたコースをはじめ一部の小流が残るのみです。
そんな水と人の歴史を感じながら、せせらぎに沿って歩きました。

サンガの遠足~多摩川台古墳群と等々力渓谷御岳山古墳~等々力不動尊~等々力渓谷

御岳山古墳~等々力不動尊~等々力渓谷

荏原台古墳群の中でも西側にあたる世田谷区野毛付近に分布する円墳群を野毛古墳群といいます。その多くは円形もしくは帆立貝型をしていて御岳山古墳もその一つ。

田園調布に分布する古墳群とは、埋葬物にも違いがあるそうです。研究者により諸説あるようですが、田園調布地域を古墳とする集団と野毛地域を古墳とする集団があったのではないかという説があるそう。4世紀から6世紀にかけてこの2つの集団が台頭争いをしていたのでしょうか。

7世紀頃には古墳が作られなくなり、変わって横穴墓が造営されるようになります。松原先生は「文字のない時代だからこそ、古墳の様子や出土物から想像するしかないけれど、それが楽しいですね」と話してくださいました。

御岳山古墳の反対側にあるのが等々力不動尊です。
目黒通りを横断し、等々力不動尊へ向かいました。
ここで暫しの休息タイム。皆さん今日の暑さにまいってしまっている様子でしたが、不動尊のお隣にある茶店でソフトクリームやアイスコーヒーで一服しながら疲労回復。元気になったところで、いよいよ渓谷へと階段をおりていきます。

等々力不動尊から谷へと下っていくと、都心とは信じられないくらい緑豊かな木々。渓谷の水音と共に冷気が癒しを与えてくれます。ついさっきまで強めの日差しにやられ気味だったのが渓谷では別世界。

「立川ローム層の下に礫層(武蔵野礫層)があって、その下には水が染み込まない渋谷粘土層があります。ちょうどその粘土層と礫層の間から水が湧いているんです」と松原先生が斜面から湧き水が出ている不動の滝辺りを指しながら地層の説明をくださいました。ここから出た湧き水が集まって谷沢川の流れと共に多摩川へと注いでいきます。

しばらく歩いていくと、今度は横穴式墓穴があるとのこと。古墳が作られなくなってくると横穴式の小さい墓穴が作られるようになるのだそう。権力が分散されたのか、それとも大きいお墓に手間が取れなくなったのでしょうか。想像が尽きません。
「横穴墓の多くは、一人につき一個のお墓というよりは、一族で一つを追葬しながら使っていたことがわかっています。」と松原先生が解説くださいました。参加者の皆さんが興味深げに復元された横穴墓を順番に見ていきます。

いにしえの人々は、武蔵野台地の突端にあたる眺めの良い場所に古墳やお墓を作り、祭祀をしながら先祖に何を祈ったのでしょう?家族の幸せと一族の繁栄を祈る気持ちは昔も今も変わらないのでしょう。
ここはお墓がある聖地とされ大切に守られてきた場所。のちに役行者の修行場所となり、等々力不動尊が建てられていくのですが、現代に至ってもなお渓谷の神秘性は保たれていることが不思議な感じです。

今回のサンガの遠足は古墳を訪ねながら田園調布から等々力を散策しました。
参加者の皆さんは、都内にもこんなに自然豊かな場所があることに感動しきり。今度はプライベートでまた来たいという声が多く聞かれました。

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