寺ネット・サンガの遠足 in横浜 お坊さんと新緑の横浜郊外を歩こう! 寺ネット・サンガ 事務局 帷子川 本立寺 寺ネット・サンガ
寺ネット・サンガの遠足 in横浜
仏教ひとまわりツアー
2019-04-19
お坊さんと新緑の横浜郊外を歩こう!
平成の最後の月となった4月。好評の寺ネットサンガの遠足が17日(水)に行われました。
今回は横浜市旭区近辺を散策します。
1950年代ごろから、横浜市中心部や京浜工業地帯への通勤者のベットタウンとして宅地化が進んだ旭区は、寺ネットサンガの代表である吉田尚英さん故郷であり、吉田さんの実家本立寺を訪ねます。今日は吉田さんご推薦の帷子川~導水道の緑道を主に歩いていきます。
旭区近辺は1950年代から宅地化が進み、起伏にとんだ地域に途切れなく市街地が形成されていきました。土地の造成と共に人口が激増し、1969年10月1日には保土ヶ谷区から旭区が分割新設されました。出発点の「鶴ヶ峰」は昔、よく鶴が飛来したことから土地の名前がついたのだとか。配られたイヤホンガイドで吉田さんの説明を聞きながら、閑静な住宅街を帷子川へと向かいます。
〇鶴ヶ峰~帷子親水公園
曇天の微風の中、鶴ヶ峰駅を出発して帷子川親水公園へと向かいました。ソメイヨシノは葉桜になっていましたが、八重桜が五分咲きくらいで華やかなピンク色に川面を染めています。公園内の新緑にひらひらと舞う桜の花びらがまた良い風情。帷子川の川沿いにまだ残る桜花を愛でながら歩いていくと、山の手で鶯のさえずりが聞こえます。帷子川の浅瀬にはコサギや鴨の姿も見られました。
〇畠山重忠古戦場後~首塚~帷子川親水緑道
鎌倉幕府の有力御家人の中でもひと際その武勇伝をはなつ英雄「畠山重忠」は、その最期を武蔵野国二俣川の河岸にて北条氏の謀略に合い、無念の死を遂げたといいます。その伝説の地が帷子川の河川敷き付近のことだそう。1205(元久2)年6月22日「鎌倉に異変あり」との報を受け、たった130騎で急ぎ駆け付けた重忠を待っていたのは何万もの北条勢の大軍でした。河原の野辺には北条軍から射られた矢が雨の様に降り、大地に隙間なく突き刺さるほどだったとか。
北条の古戦場跡や畠山重忠の首を洗ったと言われる今は無くなってしまった首洗いの井戸、重忠の首塚を参拝し、鎌倉時代に想いを馳せながら足を進めました。
土地勘のある吉田さんが帷子川の歴史について説明くださいました。元々うねうねと蛇行して流れていた帷子川は、治水工事が施され護岸補強と共に高く作られた堤防のある直線の河川へと姿を変えていったのだそう。以前の蛇行していた川は水が通らなくなって雑草の生えた土地になっていたり、川の上にふたをされた状態で緑道が作られていたり。実際にその様子を目のあたりにすると、かつての景色がよみがえるようです。蛇行して流れていたところは、緑地に代わっても曲がりくねった姿そのままに残っていました。
〇清来寺~本立寺~導水路
八重桜のトンネルを抜け、アップダウンのある小道を進みます。吉田さんが子供の頃に通っていた幼稚園を運営する清来寺をみなさんとお参りして、かつての“絹の道”八王子街道(国道16号線)を横切り、吉田さんのご実家である本立寺に向かいます。
明治以降、帷子川は横浜を代表とする地場産業「捺染」が盛んなところだったのだと言います。八王子から絹の道を通って横浜へ運び込まれた織物を染め上げ、帷子川で洗っていたのでしょうか。
本立寺に到着すると、吉田さんの弟さんであるご住職のご案内で本堂でお題目をお唱えさせていただきました。その後、本立寺の縁起を伺いながら暫しの休息です。
本立寺は池上本門寺との縁も深く、江戸時代の半ば元文2年(1737)に本堂庫裏が落慶し開山した折には、本門寺貫首日顗聖人をはじめ数十人の僧侶が池上からやってきて大法要を営んだ記録が残されています。
美味しい和菓子を頂き、力を得たところでお寺の裏手の小高い丘陵を登って行きました。いつの間にか宅地造成されている様子に吉田さんも驚いていました。
明治のころに相模川から水を引くために作られた導水路。その上に作られた尾根道緑道を歩いていきます。目的地は横浜動物園ズーラシア。こちらの緑道も大変きれいに整備されており、八重桜が見頃を迎えていました。実際に歩いてみると登り下りが何度も続きます。坂道が予想以上に多くあり丘陵地であることを実感しました。
ズーラシア入口前の幹線道路は「中原街道」。かつて日蓮聖人が最後の旅で、瀬谷から池上まで歩まれた道です。この道をたどって本立寺が開山した際にも池上から僧侶たちが歩んできたのでしょう。
川と丘陵の歴史、日蓮聖人と本立寺の歴史、自然と人間の営みを感じながらの「寺ネットサンガの遠足~横浜編」。“ブラタモリ”好きが喜びそうな、ちょっとマニアックな楽しい遠足となりました。
寺ネットサンガの遠足in横浜
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