寺ネット・サンガ 過去のイベント一覧
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「坊コン」「こんな供養は○○だ!」
坊コン
2015-07-27
お坊さんと直接語り合える場た寺ネット・サンガ「坊コン」が7月23日(木)築地本願寺の聞法ホールにて開催されました。 東京都内では7月のお盆が終わったばかり。いよいよ来月からは月遅れのお盆になるということで、テーマは「供養にまつわる行事、お盆について」です。 今回は浄土真宗、日蓮宗、浄土宗、真言宗の各宗派のお坊さん5名が参加されました。同じ仏教でも各宗派によってお盆に対する考え方や供養の仕方も違いがあるそうです。聴講者はもちろんですが、参加された僧侶の皆さんも他宗派のお盆のお話に興味津々で聞き入っていらっしゃいました。 本日のプチ法話は、八王子市延立寺住職(浄土真宗本願寺派)松本智量さん。供養の一大行事「お盆」にスポットを当てたお話です。 《松本智量(まつもとちりょう)さんのプチ法話のあらまし》 皆さんが今日きてくださった、この築地本願寺は浄土真宗本願寺派のお寺です。浄土真宗はお盆に対する考え方が独特です。実は浄土真宗では「浄土」は「あの世」ではないと考えます。「浄土」とは私たちのこの世界を丸ごと包んでいくださっている世界なのです。ですから、「浄土」はこの世と一緒にあるものですので、「浄土に行った」ということは「私達と四六時中一緒にいる」ということなんです。なので、3日間だけこの世に帰ってくるということもありません。浄土真宗では「お盆」は我が身を振り返る機会と捉えます。 「お盆」の正式な名称は「盂蘭盆(うらぼん)」といいます。単に漢字をあてはめたものです。語源は2説あり、イランの言葉で「死者」を意味する「ウルヴァン」という言葉から来たという説。もう一つは、サンスクリット語で「ウランバナ」(=”逆さに吊るされたような苦しみ”という意味)から来たという説です。このウランバナは「仏説盂蘭盆教」というお経が元になった目連尊者の母の話が有名ですが、日本では、この「ウランバナ」説が有力なようです。 ************************************* ○目連尊者のはなし 目連尊者が神通力で亡き母を探すと、餓鬼道で苦しむ母を見つけます。ご馳走が沢山あるが、手を伸ばした途端にそれらが炎となって消え失せる、それが永遠に続くのが餓鬼の世界。それを見た目連は何とかしたいとお釈迦様に訴えます。すると「お前の母はお前が可愛いばかりに、周りを押しのけてお前を育てたのではなかったか」と言われてしまいます。そして、母を助けたいなら、安居の最後の日(7月15日あたりのこと)に、修行を終えた僧たちに三宝の教えに従って施しをするようにと言われます。目連は言われた通りに僧たちへ食事を施し供養しました。その甲斐あって母は救われ無事に往生できたということです。 ************************************** 松本住職は「この話の中で「ウランバナ」=逆さに吊るされた苦しみ を味わっているのは誰でしょう?」と質問されました。 「お母さん?いいえ、お母さんではありません。実は、苦しんでいるのは目連自身なのです。逆さに吊るされた苦しみとは、逆さに吊るされた自分の状況を考えず、今の自分の苦しみは人のせいだと苦しみの原因を他に求めます。物事を逆さに見ているから苦しいんじゃないのか。というお釈迦様のお諭しによって、目連はそんな自分に気づいたのではないでしょうか。 物事を逆さに見て、敵を作って、あるいは苦しみを他に求めて人のせいにする。そういうあなたではないですか?ということを気づかせてくれるのが、お盆の行事の本来の意味であり、お釈迦様が言いたかったことは「多くの人に施し、供養をしなさい」ということなのです。これはお盆の時期に関わらずなのですが・・・」 あまりに身近な存在の「お盆」ですが、夏休み、帰郷する時期という意識の方も多いと思います。今回の松本住職のお話を伺って、改めて「お盆」の本来の意味を知り、果たして私は自分の苦しみを人のせいにしていないか?と考える機会となりました。今の自分があるのはご先祖様のお蔭、と感謝をして今年のお盆を過ごしてみたいと思いました。
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仏教ひとまわりツアー「まちのお寺の学校めぐり」高應寺
坊コン
2015-06-14
2015年6月10日(水)、「仏教ひとまわりツアー」第6段第3回が開催されました。寺ネット・サンガ&まちのお寺の学校のコラボ企画です。「まちのお寺の学校」では「まちのみんなが自由に学び、集う場所」としてお寺を開放し、各種講座を開講しています。 今回「仏教ひとまわりツアー」で訪れた「まちのお寺の学校」は、埼玉県三郷市にある「高應寺」。400年程の歴史のある高應寺は学問寺として三郷の人々に慕われてきたお寺です。若いママさん住職の酒井菜法さんが笑顔で迎えてくださいました。4月に剃髪をされたばかりとのことで大きな瞳がキラキラと輝く可愛らしいお坊さんです。 【瞑想&ホタルの夕べ】と題した今回の仏教ひとまわりツアー。高應寺境内には小さな池があり、鯉も泳いでいます。風が木の葉を揺らす音と共に、水のせせらぎがサラサラと耳障りよく響き、ホッと心が癒されます。まずは、酒井菜法住職のご挨拶がありました。会社員のご主人と結婚して3人のお子さんを持つ酒井住職は、仏教学者でもあるお父様の前住職から後を引き継いだばかり。日蓮宗では女性の剃髪は義務ではないのですが、住職就任という節目を迎えるにあたって、剃髪をすることに決めたていたのだそう。3人の子育てに奮闘するママとして、また、女性僧侶としての想いを語ってくださいました。
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寺ネット・サンガ「坊コン」「こんな供養は○○だ!」
坊コン
2015-05-25
お坊さんと直接語り合える場「坊コン」。 『こんな供養は〇〇だ!』をテーマに、全6回行われる坊コンシリーズの第3回目が、5月21日に行われました。今回のテーマは「クヨクヨしない供養 仏壇と位牌について考えよう」です。 プチ法話は横須賀市 独園寺副住職(臨済宗建長寺派)藤尾聡允(ふじおそういん)住職。「心」に焦点を当てて『供養』についてお話をしてくださいました。大きな紙に手書きで説明のための資料を作ってきてくださった藤尾さんは優しい笑顔の禅宗(臨済宗建長寺派)のお坊さんです。海外在住13年の元銀行マンという異色の経歴の藤尾さん。お寺では得意の英語を活かした外国人向けの座禅会が人気です。 《藤尾聡允(ふじおそういん)さんのプチ法話のあらまし》 「皆さんのご先祖様はいったい何人くらいいると思いますか?」藤尾さんが手に持った絵本には、何人もの人が集まっている様子が描かれていました。 「ちょっと遡っただけでも多くのご先祖様がいて、さらに何千年もさかのぼると数えきれないほどのご先祖様がいらっしゃるのです。どの方もそれぞれの時代を生き抜いた方です。これらのご先祖様が今いるところ、それが天国、浄土や極楽などと呼ばれる所なのです。そして、それらの場所に魂をお送りすることが仏教などの宗教の葬儀の作法です」と『宗教葬』書かれた文字を指しながらお話くださいました。 ○宗教葬・無宗教葬 「『宗教葬』はそれぞれの宗教を拠り所として行われるものです。”自然葬”などは宗教とは違うと思われがちですが、実は宗教に近いもの。なぜなら宗となる教えが宗教の本質であり、人を安心させるものは宗教という範疇に入るからです」 ”直葬”でも、家や炉の前でお経をあげてから火葬する場合は「宗教葬」の簡素化したものと捉えられるのだそう。この場合「魂は空(くう)になる」という理念があるので、どちらかというと宗教の範疇に入るのではないかと藤尾さんはおっしゃいます。 「一方で『無宗教葬』というものがあります。”千の風になる”、”音楽葬”などがそれにあたります。無宗教ではあっても、自分なりの信条や哲学に基づいて弔います」 ところが最近、供養せずに直接散骨したり納骨してしまうなど、何の理念もなく「直送」される方が、後々スピリチュアルクライシスに陥るケースが増えているのだと、藤尾さんは説明くださいました。供養しなかったことに対する後悔から、お寺を頼って駆け込んで来たり、親族とトラブルになって葬儀社に相談したりといったことも。藤尾さんのお寺でも去年は8件もあったのだそうです。 ○命の教え 「生きていれば一生に一度や二度「死にたい」と思うほどの辛い事があるものです。でも、そんな時に心を立て直す核となってくるのは、身近に自分を愛してくれた人との想い出です。特に、子どもにはそういった体験が大切です」と藤尾さんはいいます。 「優しいおばあちゃんの死を目の当りにしたら子どもを悲しませてしまうと、お葬式に連れてこない親もいるそうです。でも、最初は「死」を怖いと思うかもしれないけれど、死をもって「命」を教えてくれるおばあちゃんのメッセージを、子どもに体験させてほしいのです。そういった悲しみの体験から、亡くなっても見守ってくれる存在があるのだということを実感することが出来るのですから。オレオレ詐欺等をする犯人たちの生い立ちを調べてみると、ほぼ100%葬儀体験がないのだそうです。あるいは墓参りの経験もないのだといいます」 そのことを藤尾さんは警察の勉強会で知りました。「人の死を経験していれば、お年寄りを騙すことなど考えないでしょう。子どもは親の背中を見て育ちます。お墓にお参りに行く、供養をする、ということをもっと大切に考えて欲しいと思います」とおっしゃっていました。 「誰でもみんな思いやりの種を持っています。でも、涙を流さなければ思いやりの種からは芽が出ませんし、花も開きません。親が自分の親を敬う姿や、親の死に涙を流している姿を子どもに見せることで、その子どもにも親を敬う気持ちが育まれるのではないでしょうか。 ”命の教え”という観点からも、是非何らかの供養は継続的に行って欲しいですし、お墓があるなら、子どもにもお墓参りを体験をさせてあげて欲しいと思います」と藤尾さんは結びました。
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仏教ひとまわりツアー「まちのお寺の学校めぐり」妙勝寺
坊コン
2015-03-02
2015年2月27日(金)、「仏教ひとまわりツアー」第6段第1回が開催されました。寺ネット・サンガ & まちのお寺の学校のコラボ企画です。「まちのお寺の学校」では、「まちのみんなが自由に学び、集う場所」としてお寺を開放し、各種講座を開講しています。 今回「仏教ひとまわりツアー」で訪れた「まちのお寺の学校」は、東京都江戸川区にある「妙勝寺」。 徳治2年(1307)に開山し、700年余の歴史を持つ妙勝寺は区内でも歴史ある古刹として知られています。古川親水公園にほど近い、約4,000坪と大きなお寺です。 境内は自然豊かな美しい景観で、散歩に訪れる地域の方々も多いそうです。広い境内には梅もちらほらと咲いていました。 ツアーの最初に、妙勝寺住職の高松孝行さんからご挨拶がありました。 高松住職は「まちのお寺の学校」をはじめ、地域や社会に開かれたお寺を目指し、精力的に活動なさっているお坊さんです。 セミナーやイベントの会場など、人の集う場所としてもお寺を開放しています。 テキパキとしたお人柄で、「今日は時間も迫っておりますので、さっそくお札作りを始めましょう」と、ワークショップが始まりました。
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寺ネット・サンガ「坊コン」「こんな供養は○○だ!」
坊コン
2015-03-07
2015年3月3日(火)、寺ネット・サンガ主催の「坊コン」が開催されました。 今回のテーマは「宗教・無宗教」 神奈川県平塚市の浄信寺(浄土宗)のご住職、吉田健一さんによるプチ法話、供養コンシェルジュの佐藤清美さんのお話です。 今回は「宗教・無宗教」というテーマでお話頂きました。大学を卒業してすぐに葬儀社に就職した経験を持つ吉田健一さんならではのお話もあり、楽しい語り口に笑いも飛び出す和やかな雰囲気の法話となりました。 《浄信寺住職(浄土宗) 吉田健一さんによるプチ法話のあらまし》 日本人の多くはお正月には初詣に行き、お彼岸やお盆にはご先祖様が帰ってきて、クリスマスもしますが、それらは西洋の「宗教」を持つ人々にとっては理解しがたい事です。でもそういう日本独特の信仰形態は「宗教」という言葉では括りきれません。私はそれをポジティブに「非宗教」「超宗教」ととらえています。という吉田さん。 ご遺体の前で自然に手を合わせる行為にはどのような意味があるのかというお話が続きます。 「供養とはなんでしょうか?岩波仏教辞典には『尊厳をもって、ねんごろにもてなすこと』と書かれています。手を合わせ祈る行為は、目の前にいる『その人』の後ろにある人生や『その人』の死を悼む家族などを想うことで、死者の尊厳を恢復する作業だという風に思うのです。東日本大震災や御嶽山噴火などで亡くなったご遺体へ自然と手を合わせる救助の方々の姿がありました。自然界の前で人は儚い存在であり、亡骸は時には損傷が激しかったり、泥まみれになってしまっていたりと「人としての尊厳」は著しく失われていることもあります。しかし、無慈悲にも木の葉のように散らされてしまった「人としての尊厳」を恢復させる事が出来るのもまた、人間なのです」 吉田さんが葬儀社で働いていた時に「ご遺体が怖くないのですか?」と言う質問をよくされたのだそうです。そんな話から死への恐怖についてお話が続きます。 「死体が怖いと感じるのは、意味を失ったものに対する漠然とした恐怖なのではないか。 一方で、ご遺体はそのご遺族にとっては『恐怖』ではなく『混乱』ではないか。 誰とも代替が出来ないかけがえのない存在である愛する人を亡くした悲しみは、心の半分を削がれてしまったような喪失感をもたらします。そのような人にとって『(社会的な基準)死んでいるけど(宗教的な基準)死んでいない』という状態を受け入れることはとても大切なことだ。これは一見矛盾だけれど同居可能であり、そこに宗教者が加わることの意味があるのではないか」と。 吉田さんはよく葬儀の場で「お葬式はお別れ会ではないのです。これからまた新しく故人様とのご縁を結び直していくのです」と話をするのだそうです。 「物語を共有する人がいなくなった悲しみを抱えながら生き続ける人に大切なのは、死者との関係性を新たに再構築していくことであり、そのための変換作業が『お葬式』なのだ。 また、葬送儀礼によっても割り切れない後悔を背負ってしまう人もいて、死別後の後悔が今の自分を苦しめることもあります。 お墓へお参りに行ったり、仏前で手を合わせることで、少しでも気持ちが和らぐのであれば、そういった気持ちを表現する場があることや、表現する方法があることは大切だと思うのです」 最後に、「そんな此岸と彼岸を繋ぐツールとしての供養を、『尊厳をもって、ねんごろにもてなすこと』という思いを込めて行ってゆくことで、故人がいつでも生者を見守る、まさに『仏』のような存在になっていく。そして、それは未来の私の姿でもあるのです。つまり、供養をする姿を通して、私もこの世を旅立った後は彼らにとって見守り続ける存在となるのだということを伝えることにもなります。それが日本人の死生観なのではないでしょうか」と結びました。
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寺ネット・サンガ「坊コン」「こんな供養は○○だ!」
坊コン
2015-01-17
2015年1月15日(木)、寺ネット・サンガ主催の「坊コン」が開催されました。 今回は「供養とは何だろう」ということについて語り合いました。 本日のプチ法話は、大田区永寿院ご住職、日蓮宗の吉田尚英さんのお話です。 仏・法・僧の三宝に対する供養や故人への追善供養があるというお話から始まりました。 仏・法・僧をオーケストラに例えると、教えを説いた「仏」は作曲者・いのちの真理ともいうべき「法」は楽曲・正しい教えに導く「僧」は指揮者にあたるのではないか。この三つが揃ってこそ、本物のいのちの調べが奏でられるのだろうということです。 故人に供養をするときに「心さえこもっていればお坊さんは呼ばなくてもいいのでは?」「形だけの供養は要らない」という声を耳にします。 どんなに演奏者が心を込めて演奏しようとしても、「作曲者・楽曲・指揮者」がよくなければ心に響く演奏はできません。 供養も同じことで、本物の「仏・法・僧」が揃ってこそ本当の供養ができる。 ご遺族の大事な想いを故人に届けられる本物の僧侶になりたいと語ってくれました。 ○供養は双方向 供養の現場で、吉田さんは特に感じることがあるそうです。 それは「供養は一方通行ではなく、向こう側からも返してくれる」ということです。 吉田さんのお寺「永寿院」では、約十年にわたって、江戸時代の大名家のお墓「万両塚」、古墳や弥生時代の遺跡などの発掘調査と整備を行なってきました。 その過程でその都度、心を込めて供養をしていると、数百年・数千年前の方々と気持ちがつながっていくような気がすると言います。 お参りする側の供養の想いを届けると返ってくる、ということを実感としているそうです。 「これだけは供えてほしい」「手を合わせてくれるだけでいい」など、自分の死後、遺された人がお参りしやすいように、生きているうちにコミュニケーションしておくことも双方向の供養のためには大切ですね、とお話がありました。
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寺ネット・サンガ「坊コン」「こんな供養は○○だ!」
坊コン
2014-12-13
2014年12月10日(水)、寺ネット・サンガ主催の「坊コン」が開催されました。今回は新しいテーマ「『こんな供養は〇〇だ!』クヨクヨしない供養」についてです。 ○供養コンシェルジェが語る「供養の悩み」 長年、供養の現場に携わってきた「供養コンシェルジェ」の佐藤清美さん。供養コンシェルジェとして、時にはお坊さんと協力しながら、相談する方が「これでいいんだ」と納得する方法を提案してきました。 供養に関して、「誰に聞けばよいのかわからない」と悩む人が増えているそうです。実際に一般の方々から寄せられた相談から、供養に関する悩みや問題点について語ってもらいました。 ・供養 ・宗教・無宗教 ・位牌・仏壇 ・行事 ・お墓 ・死生観 嫁いだ先の宗教・宗派が違うなど、家庭事情による悩みが多いそうです。宗教や宗派が違う場合、お墓やお仏壇をどうしたら良いか困ってしまう方がいます。 お盆をどう過ごしたらわからず、「お盆はやらなくてはならないのか」といった相談も寄せられるそうです。 お骨の供養に関して、散骨や手元供養など、多様化している供養の方法にも悩むケースもあります。本人の希望であっても、家族や親族が納得しない場合もあり、亡くなってから双方の希望を一致させるのは大変です。 お位牌が二つになると「魂が割れてしまうのでは?」、あるいは「また一緒になれますか?」など、死生観に関する相談も寄せられるそうです。
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寺ネット・サンガ「坊コン」「第6回お坊さんあるある!」
坊コン
2014-10-01
2014年9月29日(月)、寺ネット・サンガ主催の「坊コン」「第6回お坊さんあるある!」が開催されました。思わずお坊さんたちが「あるある!」と頷いてしまうことをテーマに、お坊さんたちの日常に迫る大好評シリーズです。 第6回目のお坊さんは、港区曹洞宗正山寺ご住職、前田宥全さんです。 前田さんの「お坊さんあるあるー!」という元気の良い掛け声で、プチ法話が始まりました。 ○お坊さんあるある! その1「女子高生が・・・」 お盆の頃、前田さんがお盆のお経参りをしていた際、二人の女子高生に二度見されたそうです。そして聞こえてきた声が、「まじ? またいた〜!」。 どうやらお盆期間中、女子高生たちはお坊さんたちを何人か見ていて、「またいた!」と話題になってしまったようです。 ○お坊さんあるある! その2「地下鉄で・・・」 知らない男性に声を掛けられた前田さん。 「お前は地獄に堕ちている」と言われたそうです。 そこで前田さんは「私が地獄に堕ちているって本当でしょうか?」ときいてみたところ、男性は「そうだ」と言います。 すかさず「地獄に堕ちている私と話しているあなたは、今どこにいるのですか?」と返したところ、男性は次の駅で下車していったそうです。 禅僧らしい受け答えに「坊コン」に参加していたお坊さんたちも頷いていました。 お坊さんならではの「あるある!」です。
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寺ネット・サンガ「坊コン」「第5回お坊さんあるある!」
坊コン
2014-07-30
2014年7月28日(月)、寺ネット・サンガ「坊コン」が開催されました。「お坊さんあるある!第5回目」は、大阪にある真言宗の興徳寺のご住職、青木隆興さんのお話です。 前日、青木さんは傾聴ボランティアのため飛行機で大阪~宮城を日帰りで往復、28日は大阪で月参りの後、3時新大阪発の新幹線に乗って東京の「坊コン」会場に到着したそうです。 多忙なスケジュールをこなす青木さん。普段はどんな日常生活を送っているのでしょう。 青木さんのお寺では年に三回の大きな行事の他に、毎月全部の檀家さんの家でおつとめをする「月参り」があるそうです。 関東では馴染みの薄い「月参り」について、お話を伺いました。 ○月参り(つきまいり) 月命日に毎月お坊さんがお宅にお参りすることを「月参り」と言います。例えば28日が命日の場合、毎月28日に檀家さんのお宅にお坊さんがお参りに伺います。 関西では月参りが盛んで、青木さんは毎日数件のお檀家さんを訪問するそうです。 毎月決まった日にお参りに伺うので、月参りの日は檀家さんも仕事を休みにするなど調整しているケースもあるそうです。中にはお経を読んでいる最中にペットの犬がずっと吠えるので、月参りの日は犬のトリミングの日と決めている檀家さんもいらっしゃるとのこと。 「月参り」の馴染みのない地域では、興味深いお話です。 ○校区の中に約五十ヶ寺ある寺町で 大阪の興徳寺は、寺町にあります。小学校の校区内だけでも約五十ヶ寺もあるそうです。 そのため、青木さんが自転車に乗って移動していると、「ご苦労さん」と気軽に声をかけられることもしばしば。 優しい言葉もあれば、厳しい言葉をかけられることもあります。 青木さんが自転車で去る時に、生活困窮者から「神も仏もあるかい!」と言われたというエピソードもうかがいました。 東京よりも人々が気軽に声を掛け合う環境が大阪にはある、と言います。 ○子どもたちからの質問 小学校の校区の中にあるお寺ということで、職業を知るために、子どもたちが興徳寺へ訪れることがあります。その時、子どもたちから「なぜお賽銭をするのか?」という質問が出たそうです。 お賽銭は「お布施」の一種ですが、現代のお布施は「お金で払うもの」という感覚が強くなっています。 自分の大切なものを捧げて、仏さまのお力を頂くというのが本来の「お布施」の意味。 お坊さんは袈裟をまとっていますが、古くは「糞掃衣(ふんぞえ)」といって、汚くなったボロ切れを人々に施してもらって、つぎはぎにして作ったのが始まりと言います。そこで「布」を「施す」と書いて「布施」というそうです。 「お金がないとお布施ができないのか?」という問題について、青木さんからお話がありました。
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「坊コン」「第4回お坊さんあるある!」
坊コン
2014-05-10
2014年5月8日(木)、寺ネット・サンガ「坊コン」が開催されました。 「お坊さんあるある!」では、お坊さんたちが思わず「あるある!」と頷いてしまうエピソードを伺っています。 今回お話いただいたのは、千葉県流山市にある真言宗豊山派、円東寺のご住職の増田俊康さんです。 増田さんはマジックやジャグリング、バルーンアートなど大道芸の特技を活かし、近隣の老人ホームや幼稚園、各種イベントで活動なさっています。今回のプチ法話では、手品を交えながら楽しくお話いただきました。 ○心の中をうつしだす不思議なファイル 増田さんが一冊のファイルを取り出しました。「心の中をうつしだす不思議なファイル」なのだそうです。 ペラペラとページをめくると、ため息をついたり、泣いたり怒ったりしている人の表情が描かれています。不平不満だらけの世界です。 真言宗のお経の中の『般若理趣経』(はんにゃりしゅきょう)には、「如蓮體本染 不爲垢所染 」(じょうれんていほんぜん ふいこうそうせん)とあります。蓮は泥の中に身をおいているのに、咲いた花に泥が混じることがないことを示しています。 悪いものに染まらず、良いものを選び取って美しく咲く蓮の花は、仏さまの象徴でもあります。 私たちも、泥のような世界にあっても悪いものに染まらず、まわりの人の心をやすらかにする蓮の花のような存在を目指すことで、仏さまの世界に近づくことができます。 増田さんが蓮の花びらをかたどったピンク色の散華(さんげ)を取り出しました。 「これを心の中をうつしだす不思議なファイルに入れると……」とファイルに散華をはさみ、再びページをめくります。すると、どうでしょう。 先ほどの泣いたり怒ったりしている絵は、きれいな蓮の花がひらく絵に変わっています。散華の花びらによって「心の中をうつしだすファイル」にやすらかな世界が再現され、大きな拍手が起りました。 ○お坊さんって本当に悟りをひらいているの? 「本当に法力を持っているの?」と子どもたちに質問されて、「超能力ならあるよ」と手品を披露して喜ばせる増田さん。 大人たちも、増田さんの人柄に心を開いて率直な質問をなさるそうです。 「実際のところ悟りってひらいてるの?」「悟りの方法ってどこかに書いてあるんじゃないの? 内緒にしないで教えてよ」。 増田さんは、「空海上人が本に書いてらっしゃいます」と答えるそうです。 「即身成仏」、すなわち悟りを得て仏になる方法を、空海上人は『即身成仏義』の中で記されています。増田さんがわかりやすく説明してくださいました。 「重重帝網(じゅうじゅうたいもう)なるを即身と名づく」という言葉があります。「帝網(たいもう)」とは帝釈天さまの「網(あみ)」の意です。帝釈天さまは宮殿のようなお住まいにいらっしゃって、内も外もイルミネーションのようにキラキラ光輝く網があります。これらのキラキラしている網が、「重重」と重なっている様子をイメージしてください。 これが世の中であり、キラキラ輝いている世の中であるということに気がつく事が「即身成仏」ということです。
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寺ネット・サンガ「坊コン」「お坊さんあるある!」
坊コン
2014-04-07
2014年3月31日(月)、寺ネット・サンガ「坊コン」が行なわれました。 お坊さんたちが、思わず「あるある!」と頷いてしまうようなお話をお聞きしながら、お坊さんたちの日常を知るシリーズです。 今回「お坊さんあるある!」をお話いただいたのは、大田区池上、永寿院の吉田尚英住職です。 ○「お坊さんが思わず合掌してしまった瞬間とは?」 吉田さんが思わず合掌してしまった瞬間を、9つの項目にまとめてお話いただきました。各項目にまつわるエピソードや、意外な出来事を語ってくださいました。 1、お布施を受け取るとき 2、偉い人に挨拶するとき 3、食事をするとき 4、願い事をするとき 5、子は親の鏡 6、神社や教会で 7、逃げたいとき 8、被災地で 9、相手の仏が見えたとき 5の「子は親の鏡」では、こんなエピソードがあったそうです。 吉田さんがお子さんが小さいころお堂の前でお参りした時のこと。片手はお子さんと手をつないでいたため、片手で合掌のような形をとることもありました。後日、お子さんが片手をあげて合掌の所作をしているのを見て、子は親の鏡だなと感じ、合掌は形だけではいけないなと反省したそうです。 6の「神社や教会で」の項目では、神さまに合掌? と不思議な気もします。宗派によって違いがあるそうですが、吉田さんは神社や教会など、どこへ行っても仏教の信仰する人を守る神様(守護神)として合掌するいるそうです。 7、8の項目に関して、つらいことや悲しいことに直面した時、追いつめられた時も思わず合掌してしまいます。亡き人への想いであったり、真剣に命に向き合う姿があります。 ○合掌とは? 『合掌の物語』エピソード募集のリーフレットが配られました。リーフレットには、『法華経』の「常不軽菩薩品(じょうふきょうぼさっぽん)第二十」について書かれています。 「不軽」という文字には、他者を軽んじないという意味が込められてます。 相手を敬い、他者の中に仏さまを見い出して、仏さまによって生かされている「いのち」に合掌をすることが基本とあります。 「相手とわかり合おう、分かち合おうという気持ちで合掌することで、自分の中の仏さまが磨かれます」と吉田さんはむすびました。
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寺ネット・サンガ「坊コン」「お坊さんあるある!」
坊コン
2014-04-05
2014年2月25日、寺ネット・サンガ「坊コン」が行なわれました。お坊さんが思わず「あるある!」と頷いてしまうようなお話を伺います。 本日のプチ法話は、八王子市延立寺のご住職、松本智量さんです。 ○予定は未定 急な用事が入ることが多いお坊さん。チケットの前売り券は買わず、旅行も急に中止になることを常に念頭に置いているそうです。 いつも「予定は未定」と語る松本さんは、先日雪の影響で交通機関が乱れた際、多くの方が怒っているのを知ってこんなことを考えたそうです。 自分の予定が絶対のものであると思っていると、予定通りにいかなかった時に何者かに侵害されたように感じ、被害者意識を持ってしまうこともあるのではないでしょうか。 そのことで、恨まなくてもいい人を恨んでしまうかもしれません。 ○思いのままにならない命を、私たちは生きている 日本人の平均寿命の80歳とされます。ほとんどの人は、自分はだいたいあと何年、何十年生きるだろうと「予定」を立てて生きています。 ところが、事故や病気など命が尽きる瞬間は、自分の都合を超えたところにあるのです。 自分の都合を離れてやって来る「死」さえ、私たちはコントロールしたいと願います。 「生老病死」という言葉の中で、「生」の文字から「自分の思い通りに姿に生まれなかった」という意味を知る時、同時に「思いのままにならない命を、私たちは生きている」ということを知ります。 予定や「こうであるべき」という理想に対してこだわりが強すぎると、知らない間に自分の鎖で自分を縛っているかもしれません。 ○コントロールしない 先日、松本さんが公道の脇に雪を除けていた時のことです。「お坊さんはみんな自分をいい人だと思っている」と語る松本さんは、この時も「一人で雪を除けた自分っていい人!」と思っていたそうです。 ふと、近所の方が声をかけてきました。きっと感謝の言葉かなと思ったところ……「そこに雪を置かないでくれる?」 これは意外な反応でした。一瞬、松本さんは怒りを感じたそうです。 すぐに「こういう方もいらっしゃる」と気持ちを切り替えました。自分のコントロールの範囲外であることを受け入れ、怒りの感情に捕われずに過ごすことができたそうです。 他人に対しても「この人はきっとこう言ってくれるだろう」と自分でコントロールしようとすると、異なる反応が返ってきた時に怒りや恨みが生まれます。 コントロールしないほうがラクなこともあるのではないでしょうか、と松本さんは語りました。
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寺ネット・サンガ「坊コン」「お坊さんあるある!」
坊コン
2014-04-05
2014年1月14日(火)、寺ネット・サンガ「坊コン」が行なわれました。 今回のテーマは「お坊さんあるある!」です。 お坊さんが思わず「あるある!」と頷いてしまうことって何でしょう。普段、お坊さんって何をやっているの?お坊さんにも悩みがあるの? など、気になるテーマについて語り合いました。 本日の寺ネット・サンガ「坊コン」は、神奈川県平塚市の浄信寺のご住職、吉田健一さんのプチ法話から始まりました。 世の中にはたくさんの職業がありますが、「お坊さん」は謎が多い職業です。時間が決まっているわけではなく、お給料が決まっているわけでもない。売り上げなどの、何か見える成果が出ることもない。 吉田健一さんも、仕事なのか、生き方なのか、そこのところが難しいとおっしゃっていました。 お坊さんのお仕事といえば、お葬式や法事を思い浮かべますが、現代社会の中で儀式に対するニーズは小さくなっている傾向にあります。 お坊さん自身が社会の中で、自分たちの存在意義は何だろうと問われる時代になりました。 特に若いお坊さんたちの間で、積極的に社会に関わっていこうという動きが出ています。ニュースなどでもよく「お坊さん」に関する話題が上がります。 最近の「お坊さん」に関する報道の中で、吉田健一さんは「救う人・救われる人」という構図がみえてくると、それはちょっと違うと感じているそうです。 今はお坊さん側から、社会に対して何かを発信していかなければ、お坊さん自身の存在意義を保つことが難しくなっています。 死生観が失われつつある現在、社会にコミットしていこうと思いながら、どうコミットしていくかという点が現代のお坊さんたちの悩みでもあるそう。同じ時代に生き、悩みを持つ人々と一緒に問題意識を共有していきたい、というご自身の思いを語ってくださいました。 「同じ視線で語り合う、こういった場が大切ですね」と、寺ネット・サンガに集まった参加者の顔を見回しながらおっしゃっていました。 また、お坊さんと言えば「悩みをきいてくれる、解決してくれる」というイメージもあるかと思います。 吉田健一さんは「自死・自殺に向き合う僧侶の会」の活動もなさっています。自死・自殺も現代社会においては解決の難しい社会問題のひとつです。 例えば、病気になれば薬を処方される。一時的に良くなったとしても、薬に依存するようになっては、病気は根源的に解決されたとはいえません。 お坊さんに救いを求める人も、救われることに依存してしまうことが心配です。 人を救うのは、その人自身。 その人自身の自然治癒力を高め、「生きる力をどう引っぱり出すか」ということを大切にしていきたい、とご自身の方向性を語ってくださいました。
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寺ネット・サンガ「坊コン」「お骨の行方」
坊コン
2014-04-05
2013年10月21日(月)、寺ネット・サンガ「坊コン」が行なわれました。 今回のテーマは「無縁仏について」です。 プチ法話「お骨の気持ち」というテーマで永寿院の吉田尚英住職のお話を伺います。 まず、お墓は何のためにあるのでしょうというお話から始まりました。 最近は少子化の影響を受けてお墓の継承が難しくなり、自分の入るお墓やお墓の今後に不安を抱く方が増えています。 お墓があってお骨の行方が決まり、安心して晩年を過ごすことができるという方もいます。 また、お墓は故人との対話の場であり、祈りの場でもあります。 亡き方にとって魂が宿るお骨やお墓は依代(よりしろ)であり、縁のある人たちが故人を偲ぶ大切な場所でもあります。 永寿院の境内には古墳があります。古墳からは約1500年前のご遺骨や遺物が発掘されました。 故人と縁のある人が世を去って世代が移り変わっても、お墓は歴史や文化を未来へ遺す大切な場所となります。 お墓を通じて、私たちはその当時の人々の生活や心を想像し、また現代を生きる私たちも同じように様々な思いや文化を未来に受け渡すことができます。 無縁墓に眠る方々も、それぞれのかけがえのない人生があったはずです。 お骨の気持ちを考えながら私たちがお祈りしている時には、きっと眠っている故人やご先祖さまも喜んでいるのではないでしょうか。 吉田住職はご自分が亡くなった際に、お参りしてもらえたらうれしいいだろうなと考えながら、日々おつとめをされているそうです。
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寺ネット・サンガ「坊コン」「お骨の行方」
坊コン
2014-04-05
7月5日(金)に寺ネット・サンガ「坊コン」が行われました。今回のテーマは「お骨の行方」。神奈川県平塚市 浄信寺のご住職吉田健一さんのお話です。 ○お墓の歴史とお骨について 日本人が「お墓」ときくと「先祖代々の墓」を思い浮かべます。 日本で火葬が行われ、現在の四角い墓石に「○○家の墓」と刻まれている先祖墓が一般化したのは戦後で、それまで日本では土葬が中心でした。 民俗学者の柳田国男氏が昭和4年に『葬制の沿革について』の中で、特に西日本で顕著な傾向を示す「両墓制」について述べています。 「両墓制」とは、遺体や遺骨を埋葬した「埋め墓」と、別の場所に「拝み墓」(詣り墓ともいう)という2つのお墓を建てる形式です。拝み墓は御魂(みたま)の依代(よりしろ)と考えられます。昔の日本では遺骨と御魂は別であるという感覚を持っていたことがわかります。 日本人が遺骨と御魂の関係を強く意識する傾向は、終戦後に顕著になったのではないかとも考えられます。 日本人が国外で亡くなった場合、遺骨をふるさとの日本へ戻そうとする気持ちが強いといわれます。 国外の亡くなった場所の具体的な地名が意識され、同時にその土地に御魂がさまよっているような感覚を覚えます。遺骨が戻ってくれば、その方の御魂も国に戻ってくる、そんな意識が日本人の中にはあるようです。
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寺ネット・サンガ「坊コン」「孤立死」ひとりで死ぬということ
坊コン
2014-04-05
今回の坊コンは、寺ネット・サンガ代表の中下大樹さんのお話です。 新潟県長岡市のホスピス(緩和ケア病棟)で、末期がんの患者さんたちを多く看取ってきた中下さんは、現在、独り暮らしのお年寄りの見回りや、自死を考えるまで追い詰められている方々の相談窓口など、自死や孤立死に関する問題について様々な活動に従事なさっています。 お話の前に、以前放送されたテレビ東京のドキュメンタリー番組「独りで死ぬということ」を30分間拝見いたしました。 スクリーンに映し出されたのは、将来、孤立死が心配されるお二人の女性。 若い時にトラブルに巻き込まれ、以来人を信用できなくなってしまった女性は長い間家に独り引きこもって暮らしています。世間とのつながりは「携帯電話だけだよね」と語り、自身が高齢となった今「死ぬのを待つだけ」と中下さんにその心情を吐露します。 もう一人は、夫に先立たれ、現在一人で病と闘いながら自宅で独り暮らしている女性です。子どもがいないため、せめて夫の七回忌までは生きようと目標を語りますが、番組の途中で病が悪化して入院してしまいます。お見舞いに訪れた中下さんに、彼女は「もう無理かもしれない、しかたがないね」と弱々しい声で話すのでした。 世間とのつながりを自ら断ち、何をするのでもなくただ死期を待つだけの「孤独」。一方では先立った大切な人のために、自分の命をなんとかつなごうとしながら、不安だらけの日々を過ごす「孤独」があります。 場面は変わり、世間とのつながりを断った女性を久しぶりに散歩へ誘い、公園で中下さん、女性、反町先生の3人が並んで腰かけています。 番組には、今回の「坊コン」にも出席されていた法医学者の反町吉秀先生(大妻女子大学大学院人間文化研究科教授)も出演されていました。 中下さんは遠くを見つめながら、女性に問いかけます。 「独りで死ぬことってどう思う?」 女性は表情を変えることなく、しっかりとした口調でこう言いました。 「なんともないね!」 少し間を置いて出た、この言葉は衝撃的でした。 生きることと死ぬことを同じように、彼女は自分の「生」も「死」も、ただ時間の流れに任せているように思えました。 スクリーンに映し出された女性の表情から本心を読み取ることはできませんが、言葉を発する少しの「間」は何を物語っていたのでしょうか。
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寺ネット・サンガ「坊コン」「3.11これまでとこれから」
坊コン
2014-04-03
2011年(平成23年)3月11日に起きた東日本大震災から、まもなく2年が経とうとしています。 寺ネット・サンガ「坊コン」では、震災をいつまでも語り継いでいくことの大切さに焦点をあて、東日本大震災をテーマに語り合いました。 プチ法話担当は、永寿院の吉田尚英住職です。 歴史の教科書で馴染みのある日蓮聖人の『立正安国論』は、旅人と宿の主の問答形式で話が進み、全部で十の問答で構成されています。その冒頭には災害や飢饉に苦しむ鎌倉時代の人々の様子が綴られています。 文応元年(1260)に北条時頼に上呈されましたが、同時代に編纂された『吾妻鏡』には、数年前から地震・暴風雨・洪水など天災が続いたことが記録に残っており、巷には犯罪者や疫病の流行、飢饉に苦しむ人々が溢れていたとあります。 日蓮聖人の建治4年(1278)『松野殿御返事』(まつのどのごへんじ)の中には、人肉を喰らう者もいたと衝撃的な文章が残されており、鎌倉時代には想像を超える悲惨なありさまが広がっていたようです。 『方丈記』を綴った鴨長明も、養和2年(1182)4・5月、左京だけで4万2300人ほどの死者の数を数えたとあり、日本中に大変な苦しみ、悲しみが溢れていたことがわかります。 今生きているこの娑婆世界が浄土であり、浄土を生きる私たちは生きながら仏にもなることができる。しかし、一瞬の心の中には仏もいれば鬼もいる。一瞬のうちに浄土と地獄を行き来するのが私たちです。 信じることがすべての救いではなく、仏さまを信じることによって心の安定を図り、正しい心によってこの世を浄土にしていこう。迷いの根源的な問題から目を逸らし安楽へ導くのではなく、厳しいながら確実な方法を示しているのが日蓮聖人の教えです。 日蓮聖人はご自身が先のお手紙からうかがい知れるように、苦しみの体験者であり目撃者でもあったということがわかりました。
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寺ネット・サンガ「坊コン」「浄土について」
坊コン
2014-04-03
先日の雪がまだ溶けきらない1月15日。 寺ネット・サンガ「坊コン」は、八王子市延立寺の松本智量ご住職の「プチ法話」から始まりました。 仏教に救いや答えを探し求める人がいます。 しかし、仏教は「問い」として受け止めてほしいと松本ご住職はおっしゃいます。その理由は、仏さまが私たちに救いを与えてくださるにしても、「なぜ、私たちに救いが必要なのか」「助けられなければならない私なのか?」と自分自身の胸に問いかけることから始まるからです。 私たちは「死」について考える時、まず自分の死を考えます。 しかし生きている私たちにとって本当の試練は、自分の死よりも愛する者を失った時なのです。 愛する者を失った喪失感、悲しみは一人で抱えきれるものではないという意味では、私たちの命というものは独立したものではなく、共有して成り立っているものと捉えることができます。 命を縁ある人々が共有している、その姿こそが浄土の姿ではないでしょうか、と松本ご住職はおっしゃいました。
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寺ネット・サンガ「坊コン」「宗活について」
坊コン
2014-04-03
○「サンガの『宗活』」お坊さんといっしょに わたしの宗教的感性を耕す活動 12月5日(水)に行われた寺ネット・サンガ「坊コン」。 神奈川県平塚市にある浄信寺のご住職吉田健一さんのお話です。 お通夜の際、吉田健一さんはお通夜の前に、いつもこのようなお話するそうです。 「これからのお通夜、お葬式はお別れの儀式ではありません。故人との新しい関係を再構築していく第一歩です」と。 これまでの故人と築いてきた関係を断つ、また大切な人を失った喪失を埋めるための儀式ではないのです。 吉田健一さんがこのお話する背景には、「かけがえのない」大切な人を失ったことは、他の何かで埋められるはずがないという思いがあります。 吉田健一さんは、私たちに問いかけます。 故人は今すばらしい世界へ旅立ち、安らかな気持ちかもしれませんが、たったひとつ「憂い」があるとしたら何か。それは、この娑婆の世界に遺してきた人たちのことだろう、と。 故人は、この世を去ったあとも、現世に生きている私たちを見守っています。そして、自分が故人になった際には、やっぱり向こうの世界から現世に生きている人たちを振り返って、見守っていきたいと思うのではないでしょうか。 英語で「continuing bonds」という言葉があるそうです。 初めてお聞きした言葉なので調べてみますと、もともとは米国の宗教心理学者デニス・クラスの提唱した言葉で、吉田健一さんは京都大学の宗教学者カール・ベッカー氏の本を読んで知ったそうです。 日本語訳で「続く絆」という意味で、亡くなった人との絆をつないでいく、という古くからの日本人の供養の心を表しています。 私たちは、遺影に向き合い、仏壇に手を合わせ、時には故人に語りかけることもあります。 日本人は当たり前のことのように感じますが、外国の方々の視点からすれば、生きているように故人に対することが、不思議に感じられるそうです。 意識しないうちに、私たちの生活の中に「宗教的感性」が備わっているのですね。
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寺ネット・サンガ「坊コン」「法医学者が語る死生観」
坊コン
2014-04-03
今回の坊コンは、法医学者の反町吉秀先生(大妻女子大学大学院人間文化研究科)お招きし、大変貴重なお話を伺いました。 反町先生が実際に検屍、解剖された体験から9つのケースを抜粋し、それぞれの死因から読み取れる社会的背景についてのお話です。 実際に検屍、解剖された時のお話には強烈な印象を受けました。 外見はいたって健康そうなのに、体は仕事で過労状態。40代で突然電車の中で倒れ、そのまま息を引き取ったサラリーマンの方。 日本の経済成長率がマイナスに転じた1998年以降、自殺者の数が急激に増えたこと。 自然排気式風呂釜の不完全燃焼による一酸化炭素中毒によって夫婦が死亡したこと。 産後鬱によって、子どもを出産後、無理心中した母子のことなど。 実は死ななくても済んだのではないか。サポート体制がしっかりしていれば、ひとつの死が防げたのではないか。「世の中には、Mottainai 死が多すぎる」と反町先生は語ります。 何事もなく普段通りの生活をしていて、突然に断ち切られた生――。 反町先生は、死因究明が亡くなった人への供養だと考え、法医学者として15年ほど働き、現在は死を防ぐことに力を注ぐようになったといいます。 先生のお話終了後、「坊コン」参加者から次から次へと質問が出ました。 餓死は苦しむものなのかなど、「死」という現象についての質問。また、解剖して判明した死因が、例えば自然排気式風呂釜と分かった場合、予防策はどのように行政で行われるのかなど。 海外では、死因究明制度が不慮の死の予防に機能している地域もあるそうで、その点で日本はまだまだ課題が多いそうです。
寺ネット・サンガのイベント
「坊コン」
オフィス街でお坊さんとコン談!コン親!コンパ!急な参加も歓迎!定番人気の仏教入門イベントです。
「仏教ひとまわりツアー」
お坊さんたちと一緒に仏教ワクワク体験イベント!宗派宗教を超えて、次はいずこへひとまわり?
「その他の特別イベント」
番外編の特別イベントです。楽しんでいただけたかな?またの機会をお楽しみに!